XとYなんて目に見えないモノはどうでもいい

 

 

少しだけ真面目な話をします。

 

最近、「同性間での事実婚では、犯罪被害者給付金が支給されない」というニュースが ネット上で話題になりましたね。

 

このニュースがTwitterのトレンドに入ったことをきっかけに 同性婚に対する様々な意見が飛び交いました。

その中で私が少し「気になった」意見についてお話をしたいと思います。

 

同性婚より美しい愛情婚はない」

 

周囲から理解され難い中それでも尚愛し合う2人は愛を貫いていて純愛だ、というこの理論。

一見、同性婚を推奨する我々側にとっては有難い意見のようにも感じますが この発言自体が差別である事を 発言者には分かってもらいたいです。

 

別に当事者は 自分たちの愛が純愛だ!なんて思ってないです。

同性愛者だって浮気するヤツは平気で浮気するし、責任だのなんだの面倒臭い後腐れがない分、ヤリたい放題やってる人も居ます。

勿論、真剣にお付き合いしてる人同士も居ますし、そういう人たちはパートナーシップ制度を利用したりして 2人で生活していく為の術を 使っている訳ですね。

 

別に反対されようが非難の声を浴びようが、私達は 同性愛者として生まれた事は変えようが無い事実ですし 「私全然理解あるから!気にしないで!ほんと!!」等と謎のフォローをされた暁には、『いや、お前に理解されようがされまいが 勝手に好きにやるから (笑)』と悪態をついてしまいたくなります。

 

話は少し変わりますが、最近流行っているボカロ曲のヴィラン

この曲は公開されてから100万再生まであっという間だったそうですが、コメント欄には 歌詞の考察意見が多数寄せられ その大半は 同性愛者、または性同一性障害の主人公をモチーフにした曲なのではないか という内容でした。

(この曲を知らない方は、一度視聴をなさるか歌詞に目を通して貰えると今後の文が読みやすくなります)

 

私はこの曲、とても好きです。メロディーもかっこいいし歌詞の内容も共感し得る部分が多くあります。

 

でも この曲の歌詞って「同性愛や性同一性障害である事を批難される現実」があってこそ生まれたモノなんですよね。ヴィランというタイトルも含めて。

同性愛や性同一性障害に 偏見のある社会がなければ生まれなかった歌なんです。

だって偏見のない世界では 同性愛や性同一性障害は悪では無いから。

ヴィランは偏見があってこそ、成り立っている曲なんです。

 

 

 

私達当事者が本当に望むべきなのは 「理解を得る事」では無く「当たり前」なのではないでしょうか。

異性愛者の人は、「私/僕は 異性愛者なんです」と他人にカミングアウトしません。

だってそれが皆の言う「当たり前」だから。

態々、人に話す必要が無いんです。

それと同じように同性愛、両性愛、無性愛者、非性愛者、細かく分類すればもっともっと沢山 愛の種類がありますが その全ての愛情が「当たり前」になっていったらな、と思います。

個人の理想としては 「好きになった人が好き 」が罷り通る世界を切望しています。

 

近年 LGBTQに理解を得る為の運動が活発化してきていますが 自身が当事者であることを特別視している人が 一部見受けられるような気がします。

差別をやめて、と声を上げるのは結構ですが 自分達を区別していませんか?

異性愛者が多い世の中で生まれてしまった 特別な自分、と無駄に誇ってはいませんか?

 

別に何も特別じゃないから。

肌の色が白いとか黄色だとか黒いだとか、髪がブロンドだとか天然パーマだとかストレートだとかそういうのと同じだから。

 

 

当たり前の世界にする為に得る理解、それを主張する私たちの意見も また見直さなくてはならない。

何かの手違いで生まれ変わった時 異性愛者以外にまた生まれてきても 今よりずっとずっと暮らしやすい世の中になっていますように。