生きゆく事と、死にゆく事

 

 

数日前から所謂、鬱期というものに入ってしまい、原因を探すも中々明確なものは見つからなくて、多分小さい事の蓄積で堰き止めていたモノがぐわりと、ボタボタと、真髄となって溢れて止まらなくなりました。

その間、隣に住んでいる幼馴染も同様に鬱期に突入してしまい私とは違う形でそれ等を吐露していました。

地獄のような週末を過ごした筈なのに、今は心底この部屋が愛おしいです。

壁を隔てて隣に互いを許せる人がいて良かったと思いました。

 

 

沢山、泣きました。

前にも書いたことがあると思うけど、憂鬱な気持ちから私が涙を流す事は最近めっきり減ってきてます。アニメや漫画の創作物に対しては感情的に涙を流してしまうのですが、自分自身の事で泣いたのは本当に久しぶりです。

 

通り過ぎた事ではあったけど、起きた変事をぽつりぽつりと話しているうちに涙が溢れて止まらなくなりました。私自身がそれ程までに重たいものであると自覚していなかったのもあると思うのですが、言葉にして出してみると中々に息苦しい出来事でありました。

 

それと同時に、最近襲ってくる焦燥感が鬱期のトリガーになりました。

同級生の結婚だったり、転職の話だったり、友人の幸せな話を妬む程、心に余裕が無い訳じゃないと思っていたのに、タイミングが悪かったんでしょう。その上、生命保険の手続きで母から電話が掛かってきた時はパニック寸前でした。目の前に幼馴染が居たから良かったものの、多分独りで電話を取っていたら色々と終わっていたと思います。

来年、半年後、なんてのは論外、来週の予定さえも定かではない日々を送っているのに、急に「42歳までのプランが〜」等と話をされても分かるわけがありません。

そんなに私生きてるのかな、と電話越しに呟いてしまったのを聞き逃さなかった母に半ば呆れたような声で「生きてるに決まってるでしょう」と言われてしまいました。

 

本当に生きてるのかな。

正直、今を苦しまないように予防線を張って、道を整理しながら進むのに精一杯で、何年何十年も先の未来の事なんて考えている余裕が微塵もありません。

計画的な人は若いうちから色々とあの手この手を使って考えながら人間生活を送っているのでしょうけど、そういう人を下から見上げてばかりいます。

 

生きて行くのが怖いです。でも死んで行くのも怖いです。

死に対して絶対的な肯定が無い事が分かっているから。

私は自分自身を傷付けたり、殺めたりする事はないと思います。

それが正しいとか間違ってるとかでは無く、

 

生きる事は考える事です。自論ですが。

考える事を辞めた時が、私の死に際だと思います。

 

 

最後になりますが、私が死に対しての考えを確立出来た言葉を、貼っておこうと思います。

14歳の私の愛読書でした。

長い台詞ではありますが、読んで頂けると幸いです。

 

 

「死後の世界を信じる事ができるのはね、生きてる人に与えられた権利なんだよ。
それか、死を考えて考え抜いた上で出した結論なら、俺は文句言わないよ。
もしくは___物凄い絶望に追い立てられる人ね、金融業者に散々裏切られて追いつめられた人とか、そういう周囲からの圧力に追い詰められた人とか。

貴方達の場合は、あくまで自分の内側からの圧迫でしょう?
自分で死を選んでおきながら、死後の世界に甘えるなんて許されない事だと思うよ。

解ってないよ、全然解ってない。
君はあの世には無しかないと言った。そこがね、違うんだよ。
もう苦しまなくて済む、そういう意図で言ったのかもしれないけれど___
死ぬってのは___無くなるって事さ。消えるのは苦しみじゃない、存在だ。

何も無い状態が『無』じゃないんだよ。
無というのは必ずしも『有』の対立存在ではありえない。
君の言っている無は、何も無い事、永遠の闇。
だが、そこには“その闇を知覚している自分という存在があるじゃないか。
全然無じゃないよそんなの。
苦しみから解放されようとして死ぬというのならば、『苦しみから解放された事を認識する自分』が必要じゃないのかい?
君達は『自分が何も考えていない事すら認識できない』という事すら認識できない、その状態が想像できていない。」