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私が頻繁に口にする「頭良い〜」は勉強が出来る/成績が良いでは無く、根拠や道理を明らかにした上で結論を出せて、相手が誰であろうと分かりやすく説明が出来るって事なんだけど、文系脳の私からすると、これらの流れを文体化する事は出来ても その手前の根拠と結論を結び付ける作業が苦手だから 人の仮説や論理を聞いて自分で選択判断をするしか方法が無い、それがまた悔しい。

 

人は独りでも生きていける論を私は提唱しているけど、それに反する人はきっと「生きる」の部分を深く捉えているから、だと思う。

私の考える「人は独りでも生きていける」は対局して浅いもので、呼吸したり眠ったり何かを食べたり、「生活に置いて他者から干渉される必要は無い」という話だ。必要性は無いがそれを加味した上で面白かったり楽しいと感じる相手、人と関わっている選択をしている。若しくはそういう相手が居たらラッキーだ。

しかしこれを言うと大抵「あなたの住む家も、働いている会社も、使っている水道や電気も食べている物も、全て人が携わって出来ている」「だから独りで生きていける等と驕ってはいけない」と返されるのだが 逐一それを思い感謝して他人に生かされていると感じなければならないないものなのか。そもそも人は普段からそんな事考えて生きてるのか?「人は独りでは生きていけない論」を提唱している人はそれを意識して生活してるのか?答えは否である。

 

このブログの冒頭にも書いた「頭の良い」人が私は人間として好きだし、興味深い意味で面白い。追記すると、私は感情論を表に意見として出す事が苦手だから「だって嫌だから」「そう思っちゃったから」という論争はあまり向いて無いなと思う。聞くことは出来るけど肯定するには、相手を選んでしまう。この人の感情論には寄り添えるな、と思える人は1.2人しか居ない。

それ自体を否定している訳ではなくて、自分の中で感情論は合理的では無いっていうだけなのだけど。

 

感情を意見として外に出す、で気付いたことは 私は今まで自分の意志で自身を外に開放する事が得意ではない(開放出来る相手もいる)と思い込んでいたんだけれど その認識が間違っていたという事。

自分発信であれこれ話そうとはしないけど(ブログで書くことはさて置き)、基本的に他者から聞かれて嫌な事や拒む気持ちは無く、限りなくNGが無いに近い事が分かった。心の中で他者と壁を作っている気でいたはずが、実際は壁では無く鍵のかかっていない引き戸と同じレベルだったという事。

 

パーソナルスペース広いよね、と言われたり逆に案外狭いよね、とチグハグな事を言われる所以は恐らくこれだ。言ってくる相手のパーソナルスペースが広ければ、私もそれに伴って距離を広く取るし、案外狭いよね、と言ってくる相手は大体その人本人も狭かったりする。来る者ちょっと拒む、去るもの追わずのスタンスでは無く 通行ご自由にどうぞ状態だったのだ。

 

以前、考える事は生きる事、という話を記述したような気がするのだがこれに関してもまた少し考えを改めてみた。

考えずに行動した方が上手くいく場合があるけど、考えずに行動する時は必ずと言っていいほど人が何かに追い詰められている時だ。

大切なものを捨ててまで対象に取り組む事が出来るかという場面で、私は考える事を捨てる選択肢が生きていく上で必要になる事もあると気付いた。私にとって考える事は生きる事だけど、考える事を捨てなくてはならない選択をした時は生きたい時。考える事を放棄した時は、死ぬ時。

 

今までズラズラと意味の分からない文を連ねていた訳だが、これらが実は「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を見た私の感想だ。

尚、私が記述した上記の文はシンエヴァの内容には一切関係が無いのでご安心を。

シンエヴァを見た事によって自分のことを改めて考え直すきっかけを貰った。

エヴァを見ていると考える事が楽しいと思えたし、もっと考えたいと思える。エヴァは私の青春であり、人生だった、というお話です。

自分と向き合える素敵な作品でした。

エヴァシリーズは今作を持って完結してしまったが、エヴァという存在を認知できた事、出会えた事で、人生が豊かになったなと心の底から思う。

非オタの方々からすると、コイツ何言ってんだ状態だと思うのだけれど、エヴァを好きでいる人達は皆、今作に感謝している筈だ。

 

ありがとう、そしてさようなら。

全てのエヴァンゲリオン