3回のウラ、春訪れて翔ける馬に思いを馳せる

 

 

言葉の可能性は本当に無限大で、使い古された表現だけれど 心臓を突き刺すナイフにもなるし 凍った心を溶かす灯火にもなる。

言葉狩りだとか、規制だとか きっとやり出したらキリがないけど明確な線引きを誰かがしないと同じことを繰り返すし 何かが起こる度に身を引き締めようと感じるのにも関わらず 時間が経てば人は忘れるし 毎日不幸なニュースで溢れている。

とは言っても 誰かを殺したくなるほど憎んでしまう気持ちのコントロールは出来ないし それを日常的に口にしてしまうことも少なからずあるけれど 私が憎む誰かを想う人も居るって忘れちゃいけないことなんだよな 怒りで見失いそうになる事もあるけれど。

言葉の発信が、物事を良い方向へだけ導けるよう連ねられたら良いのに。それが出来るようになるまで、私は、人類はどれだけの時間を要するのかな。

 

世間からすれば突然の出来事であったかもしれないけれど 本人からすれば確実に、じわじわと限界へ近づいていたのだろうし、それが実際に行動へと移されたのが今日であっただけで、心の死そのものはとっくに訪れていたのだと思う。

 

母が、悲しんでいた。

 

親の視線から見ての意見だろうが、死ぬほど辛いことなのだろうか?と漏らしていた。

母も、聞く限りはかなり波乱万丈な人生を歩んでいる人なのだが 死という選択肢は今まで考えた事も無かったようで 酷く落胆している。

そんな所、追い打ちをかけるようで悪いなとは思ったが 私もそういう事を考えてしまったことが何度もある、と初めて伝えてみた。

自ら死を選択する時、きっと親や周囲の人間の気持まで汲み取る余裕も必要も無い。その思考に陥った時点で限りなくもう、手遅れに近いから。

 自身を殺めてしまう前に、ガス抜きをさせてくれる友人や家族のお陰で今は何とか 頑張れているから 亡くなった人の事を責めないでくれと、やんわり伝えた。

 

母が母で良かったな。話の分かる人で良かった。悲しんでいる母を見て、人を想える人で良かったとも思った。