脚本と演技と私

 

 

 

学生時代から数え切れないプロットが浮かんでは消え 浮かんでは消えていった。

書き出しは良かったものの 後から読み返すと自分の書きたいものでは無くなっていたり これってあんまり面白くないのでは、と勝手に自信を失くした。 だからといって削除するのも何となく惜しくて 数年放置しているようなデータが 何本もある。

 

私が 初めて舞台の台本を書いたきっかけは 高校の部活動にあった。

私が入部したのは 演劇部だった。

同じクラスになって一番最初に出来た友達が見学に行くから、という理由でノコノコとついて行った結果 「長崎にタダで行ける(春時点で全国大会出場が決まっていた為)」という不純な理由と 下見に行った先輩方のお土産のカステラに釣られて 入部を決意した。本当にテキトーな奴である。

 

入部当初、役者より裏方作業に興味のあった私は 大道具のメンテナンスや音響作業中心に活動をした。2年生になってからは 顧問の先生に 当て書きのような台本を貰い 嫌々ながらに役者を何度かやった。今考えると その役者の経験がなければ すんなりと先生に台本を書かせては貰えなかったのかもしれないし、舞台監督にもなれなかったかもしれない。役者の経験を経て、舞台監督兼、脚本という二足ならぬ三足のわらじを経験する事となる。

 

私の入った演劇部の顧問の先生は 高校演劇界では 割と名の通る人だったようで 演劇界隈に無知だった私としては それがどれ程までに凄い事なのか 当時よく分かっていなかった。

 

けれど、素人目で見てもあの先生の書く台本は 本当に面白かった。高校演劇の制限時間60分にピッタリ収まる簡潔さと テンポの良さ。飽きの来ないコメディーをベースに 緩急をつけたシリアスシーンをラスト15分に詰めこむ。社会問題を訴えるようにオマージュさせた作品が多く、観る者に想像力を与えるような 生命力溢れる脚本だった。

 

先生は台本を書くことに関しては 何も具体的なアドバイスはくれなかった。

書き方は全て 手元に残された過去の先生の台本だけを見て学んだ。盗めることは全て盗もうとした。高校生の限界を見せたいと思った。

 

原稿の入ったUSBを持って、印刷室で先生と二人 部員分刷られていく台本を眺めた。

無言だったその時間は 私にとっては何処か息苦しい時間でもあった。私の書いたものに対して先生は何も言ってくれない。言っても治らないからなのか、内容に呆れているのか、不安が漂う時間だった。 

けれど  何度か先生に台本を刷って貰い、この無言の時間を過ごすうちに 脚本の良い悪いなんて正直関係がないのかもしれない、と思った。

 

先生は 役者への演技指導は凄く熱が入っていた。

何度も同じシーンを繰り返して、何度も同じ台詞を繰り返す。

裏方も全員で演技を見て 意見を出し合う時間を取る。

 

脚本なんて 土台に過ぎないのだ。

そこから舞台を良い方向に伸ばすのは役者の演技次第であり、それをアシストするのが裏方の役目だった。

 

私の書いた脚本の中の女の子を 想像以上に真っ直ぐ綺麗に演じ切る部員が居た。

私が入部するきっかけを与えてくれた 同じクラスで一番最初にできた友達。

 

正直 私は彼女が本当に演じたい役を書いてあげられていたのか 自信が無い。

いつも私が書きたいことを、脚本には投影させてしまっていたし 脚本構成に関しては本当にワンマンプレイをしてしまっていたから 私のやりたい放題だった。

 

それでも彼女は 文句一つ言わず 演じた。

ひたすら、演じ続けてくれた。

 

私が生みの親だとしたら、そのキャラクターの育ての親は彼女だった。

私は生んだだけであって、それを必死に時間をかけて 立派にしてくれたのはずっとずっと、彼女だった。

 

書いた脚本を、褒めて貰うのは嬉しかった。

それと同時に、彼女の演技を褒める声が終演後のロビーで聞こえてくるのはもっと嬉しかった。

 

東京での公演が決まった時 地元の新聞社から取材を受けた。

賞状とトロフィーを持って、写真を撮った。

何を話したのかは、さっぱり覚えていない。

でも 「この子がいたから私は脚本を書けるんだな」とカメラに真っ直ぐ視線を向ける 彼女を見てそう思った事だけは 未だに覚えている。

 

高校卒業から約5年。

私はイベント施工会社へ入社し、舞台とは程遠い世界で働き 飯を食っている。

先生は私が高校3年の春に異動になり、それ以降は赴任先の高校で 相変わらず演劇部の顧問をしている。

私の脚本を真っ直ぐに演じてくれた彼女は、役者の道を志し、舞台の仕事も並行しながら再現VTR等、多方面で演技活動をしている。

 

恵まれていたな、と思った。

脚本を書ける事、それを演じてもらう事、指導してもらう事、全てにおいて恵まれていた。

勿論、部内衝突は何度もあったけれど、それら全てを引っ括めて私の高校生活は講堂のステージと、狭い部室に収まっていた。

 

また書きたいな、巡ってくる機会を願って。